コールドシャワーを浴びて 

コールドシャワーや、Atomization思考による日々の徒然を綴ります。

スポーツにおける〜流れ〜とは

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流れという表現は社会、政治、スポーツ、人生、よく使われる。ある人はtide、sequence、story、momentum、stream、line、situationなどと直訳英語を同義に使い、これを含めるとほぼ毎日ニュースなどでコメンテーターからの口から発せられている。取り分け、スポーツ、中でも最もそれがよく使われる競技、まさに「流れのスポーツ」と表現される野球に目を向けて話を展開したい。

ちなみに、これは野球を現在も続ける私のこれまでの経験則、振り返りを含めて、というかそれがソースであることを読む前提にご理解いただきスクロールしてください。

第一に、流れなど存在するのかという根本的問いである。野球以外の社会的生活や営みにおいては間違いなくその存在は認められる。風が吹けば桶屋が儲かるという一連のsequenceがそれであり、心理的要因が購買要因の全てか大部分をなす場合、流れ、ここでは複合的要因、循環(経済、環境)が揃っている=流れ、storyが成立しているからだ。楽で儲かるバイトをこなして、親から家賃は負担してもらっているから、表参道のフレンチトーストが900円でもお腹が空いているからエイっとソイラテもセットでということが何気なくできる。これがバイトという流れのスタート要素が欠けると、彼氏が一緒などといった他の要素が補ってくれない限り、モスバーガーで450円で良いやと自身を納得させるのである。これは貴賎に関する良し悪しの話ではなく、storyが違ってくるということである。フレンチトーストもモスバーガーも原価はそこまで変わらないが、そこで過ごす時間や見る人というその後の流れの潜在的構成要素が大きく変わってくるのである。

話を野球に戻そう。例に漏れず皆さん同様に、私も野球は「流れのスポーツ」であるという指導者、リーダーの支配下に常にあった。「目に付く黒板や帽子の淵に書いてあるわけである」〜流れ〜を支配する。例えば、野村監督(元楽天)や渡辺監督(前横浜高校)の名言を引用していたりである。故に毎回その存在に向き合い対峙させられてきた。というのも、その掴み所のない概念にとても苦しめられ、精神的コンセプトであるためにどこでも頭をぐるぐるかき乱すのだ。これが流れの存在に違いないのだが。そこで私が出した結論が流れなどないという存在否定である。幽霊などいないというのと仕組みとしては同じである。

 次に、これが一般的に少数派の考えである理由とこの考えのメリットを紹介したい。まず、監督やコーチといった権威が流れを重んじる場合、それこそ、その流れを見極めないと評価やアピールが最大化できない。進塁打やケースバッテイングといったプレーが阿吽の呼吸で、ノーサインでできる打者が流れを加速させてくれることは想像の通りである。しかし、それは相手も把握していることであって、必ずしも右打ちによる進塁を企図して成功するものでもなく、球種やコースもそれを阻止しようと意図して組み立ててくる。では、「流れって何だそれ?」という言うなれば、猪突猛進型ガムシャラ思考の打者がレフトオーバーを打ったとなれば、評価が高い結果を出すことができる。だがこれは流れを断つ可能性(サード、ショトーゴロゲッツー、進塁不可の外野フライ)というリスクがあることに気が付いていないと権威に思われてしまうことがありえて、好ましくなく、ならば無理やりヘッド返さず右打ちに妥協しようかという安易で短絡的な教育をされていくのである。故に流れに刃向かうリスクを背負わない、言い換えれば、その場のノリを見定める選手が輩出され続けるのである。(誰目線だよ(笑、つまり同調性、チームワークの途切れない一貫性の象徴を形成しているわけである。そう正に、日本的、武士道的、出る杭を求めない道的、連綿と続く一本道というべきstoryがここにあり、受け入れられやすいのである。メリットは、正に出る杭となれるoutstandingな活躍を生み出すいわば、先駆者、innovatorとなれるBlueOceanの価値観を養えるとういうことである。そこでそのプレー!?Wow、異端児、モンスターと形容される彼らである。   

この〜流れ〜が痛烈に感じられる場所を紹介したい。それがそうご存知、高校野球である。storyが仕上がったシステマティックワーク故に、outstandingな、目立つplayは個人の心理的負担、リスク故に頻繁には目にすることはできない。原因と結果であるが、だからこそ、流れを意識したプレーを尊ばれ、smoothにコトが運ぶのである。

最後に、〜流れ〜の正体、種類とも言っていいだろう(おい何様だ?)を挙げて締めくくりたい。 

それは、〜流れ〜という各人の勝手なstory想起により生み出される中立性が欠落したジャッジである。

もう一つは、それを含めた介在不可能な、まさに神のみぞ知る複合要素、風、グランド、守備位置、体調、配球、サインなど分解停止の提示そのものである。意識しすぎなのではないだろうか。私の経験では、18.44(リリースはもっと前)から放られた球体を棒でヒットするというシンプルな事象に〜流れ〜を加味するだけでともうキャパオーバーなのです。さらにサインを見落とさずにとなると。〜流れ〜を意識しすぎない、知らず知らずに勝手に〜流れ〜を生み出す選手、その当事者になりたいと思うのです。〜流れ〜の存在をを認めて疑わない当事者は、自分という主要要因に向けるべき反省、記録を怠ってしまう危険がある。後付けの言い訳、心理的甘えとも言えよう。その瞬間も当事者であることを忘れているのだ。  

ならば、〜流れ〜を変えるとは何なのか、既存のstoryを変えるのはそれ程容易ではないだろう。「あの〜流れ〜だから無理にでもボール球に、暴走といわれるがあのケースでは」「んん??先輩このミーテングって今日の試合についてですか?ああ文化祭の演出かと思った。ういっす冗談です。」なんとも〜流れ〜の長いお話でした。     

byカズ